演奏しに行ったんですよ、マジで・・・


 北海道演奏旅行に関する日記です。ホントはリアルタイムに更新したかったのですが、帰ってきてから一気に書き上げることになってしまいました。録画放送みたいなものだと思って下さい。

1997.7/18・・・北見公演

1.遅刻王の面目躍如

 演奏旅行初日。朝4時に起床するも、羽田空港での集合に遅刻しそうになる。後輩を1人泊めたのだが、危うく道連れにするところだった。のんびりと支度して「華麗なる舞曲を聴いてから出ようっと」などと余裕をかまし過ぎこの有り様。早朝の山の手線、あんなに本数が少ないとは。モノレールの方が多いんだもの。ギリギリ間に合う電車に乗っていざ空港へ。心拍数が上がり無口になる我々。当然、遅刻厳禁なのでシャレにならん。演奏旅行4日間と北海道お遊び旅行6日間の合わせて10日分の荷物が肩に食い込む。とにかく走った。そして間に合った。称賛の声で迎えられる。何しろ私は「遅刻王」の称号を持っているのだ。特に大イベントでの遅刻(未遂)が多かった。最近やっちまうことが久しく無いので「つまらん」との声もあり。ま、ギャグになるのは間に合ってるからだけど。4年にもなって遅刻するとかなり寒い。

2.北見にてボッタクリの危機

 JASのサービスに驚く。明らかにJAL・ANAよりも良い。契約社員が少ないのだろうか。北見に到着するまで快適な時間を味わうことができた。空港からバスでホールへと移動する。ホールに荷物を置き、いざ昼食へ。弁当ではなく、自前だ。取りあえず歩く。何も無い。国道沿いにずんずん歩く。お、店の看板だ。なになに、喫茶・軽食? むぅ、良さそうではないか。看板を頼りにレストラン「楡の木」に入る。なにやら専門学校の1階にある店だ。怪しい。学食じゃないだろうな、と思いつつ席につく。誰も案内してくれない。というよりも店員がいない。「何だ?何だ!」とワイワイやっていると奥からおばちゃんが出てきてひとこと。「あの~、もしかしてお客さんですか?」 「・・・」 一同凍結。寒い雰囲気が漂い、すでに心の中では「誰がこの店にしようって言ったんだ」と戦犯探しが始まっている。しかもピラフと冷やしラーメンとスパゲッティしか作れないと来たもんだ。緊張感の漂う中、おそるおそる聞いてみる。「えーと、値段は・・・」

3.天国への扉、開く

 結局、安いし量も多かった。ただ時間がかかったけど。ホールへと急いで戻り、ゲネプロの準備にかかる。 セッティングスタッフである私は舞台へ。指揮権は3年生に移っているのであくまで手伝いとしてである。下手に口を出すのは逆効果でしかない。苦労しているのを黙って見ているぐらいが丁度良い。セッティングを終えて逆リハ。そして本番。課題曲1からの乗りである。曲が始まり順調に音楽が進んでいく。譜面が進み、Asを1小節吹くところで「?!」 Asが出ない! 次のフォルテの部分も音が変だ。・・・ん、ひょびぇ~F管が戻ってこないぃぃぃ!!! 必死こいて無理矢理元に戻す。その間にも曲は進み、終わる。プログラムも進んでいく。ブルーが尾を引き、いまいちノッてこない。だが2部でそんな思いは吹っ飛んだ。「天国と地獄」の出来が素晴らしかったからだ。個人的にも、パート的にも、バンド的にも。「スパルタクス」の出来はいまいちだったのだが、お客さんは温かい反応を示してくれた。アンコールのマーチ「美中の美」では手拍子が自然発生し、演奏終了後の影アナにも拍手が起こった。泣けた。ますます音楽が好きになった。初日からこれでは最終日の札幌はどうなることか。上がり調子のうちに今日よりも明日、明日よりも昨日となる(はず)だから。演奏会に足を運んで下さった北見のみなさんへ、ありがとう。

1997.7/20・・・旭川公演

1.あふれ出る、牛乳

 前日は移動日だった。北見公演で生まれた気合の波は本番無き旭川でやや下向き。そして今日、満を持しての本番である。朝起きてホテルの朝食をとる。バイキング形式のものだ。こういうときにとことん栄養補給するのは貧乏人の性か。一通り皿に盛り席につく。飲み物を取りにドリンクのコーナーに行くとオレンジジュースと牛乳、コーヒーが置いてあった。牛乳のコックを押してコップに注ぐ。こんなもんか、とコックを戻す。が、止まらない。「ひえぇぇぇ!!! 止まらん! 牛乳が流れつづけているぅぅぅ!!」、思いっきり慌てる。ただ表面上は平静を装っているのがさすが(?)だ。ドリンクサーバ下のトレイに溜まっていく牛乳。トレイの壁は1cmぐらいしかない。決壊は時間の問題である。「あの~すいません、止まらないんすけど」 とりあえずコックをいじる従業員。どうやら本格的に壊れたようだ。穴そのものを指でふさぐお兄さん。人が集まってくる。さて、ごはん食べようっと。さりげなくとんずら。席について後ろを振り返ると「故障中」の貼り紙が。俺じゃないって。「壊した」のではなく「壊れた」んだって。

2.昨日の話し、ジンギスカン、消化

 朝飯をたらふく食べた私だが、正直こんなに食べられるとは思わなかった。なぜなら前日にジンギスカンを吐く寸前まで食べまくっていたからだ。本番を明日に控えていることもあってアルコール無しではあるのものの、常軌を逸した狂乱の宴であった。今公演は中央大学学員会旭川支部の後援を受けている。レセプション会場の「ココス」は学員の方が経営している店で、すべてロハである。ジンギスカン食い放題・ドリンク飲み放題・ライスお代わりし放題という至れり尽くせりの歓待。タラバガニも「うんうん、これがカニなのね」というほど豪快に出てくる。お店のお姉ちゃんが来る度に「ライス12皿!」だの「肉6皿!」だの騒ぎまくる我々。あっというまに出てくる注文の品を片っ端から焼いて食って飲む。石狩鍋はすぐに「おじや」と化し、カニの殻がダシとして浮いている。これがまた美味しい。ひっきりなしに焼かれる肉、後を追うライス。アルコールなしの大饗宴に酔いしれる。なぜか舌はもつれ、頭はポーッとしてくる。ひょっとすると酸欠だったのかもしれない。

3.ブレンド、そしてアメリカン

 旭川公演、本番。個人的に絶好調。吹いても吹いてもバテないし、音も荒れない。「これはいけるかもしれないな」、淡い期待に胸を膨らませる。2ベルが鳴り、順調に演奏会が進んでいく。課題曲などは明らかに北見よりも良い。「青銅の騎士」はやっとこなれてきた感じだ。北見はやはり浮き足立っていたのだろうか。攻めの音楽がホールに響く。音響はかなり良い方ではないかと思われる。吹いている側も気持ちが良い。問題は客席でどう聞こえるかだ。演奏終了後、ホテルに戻り今日の演奏の録音テープを聞く。「???」 まるで別のバンドみたい。金管はあくまでマイルドでうるさくない。木管もしなやかだ。ただしなやかすぎてあまり聞こえない。音が遠い。あとでアンケートを見ると「木管が聞こえない」との声あり。でもこのサウンドは魅力だ。木管と金管がブレンドされ打楽器が音楽をつなぐ、いわゆる中大サウンド。ま、この辺は好みかな。旭川公演も大成功のうちに終わり、アンコールでは異様な盛り上がり。うれしい反面恐ろしくもある。上がり調子で札幌に突入するのはいいのだが、北見・旭川以上の演奏ができるのかどうか。だが今回はお客さんも納得しているのが伝わってくるので弱気になることはない。攻めの音楽が、札幌で炸裂する。やっと、音楽家の集団になりつつある。

1997.7/21・・・札幌公演

1.夢の裂け目

 朝食を摂りに食堂へと向かう。従業員にクーポンを渡して中に入る。思わず息を呑む。バイキングの列は切れ目なく続き、ご飯と味噌汁の給仕に至ってはそれが折れ曲がって2列になっている。パンは籠に入れて置いてあるだけで比較的すぐに取れるようだ。ホテルからホールまでの距離はかなりあり、地下鉄に乗って移動しなくてはならない。時間に余裕が無いのが気にかかる。演奏にあたって人それぞれのジンクスがあるものだ。どうもパンでは良い演奏が出来る気がしない。昼食には弁当が出るがあまりあてにしないほうがいい。演奏会のある日というのは1日の行動そのものが作品だ。アマチュアは思い出を大事にする。しかしこの混み様は何なんだ。あ、そうか、観光客だ。つかのま夢を味わい自分の現実に帰って行く人達。その姿は何日か後の自分であり、奇妙な嫌悪感を生じさせる。こんな考え方、自分勝手だな。

2.札幌市民会館

 良いホールだ。ただ、何をもって良いホールとするのか。確かに音響は良い。が、音響の良さは絶対条件だ。個人的にホールは「家」だと思っている。演奏に向けて心身を整え、音楽をし、そして帰ってくる。そのすべてに心地よさが生まれる。お客さんにとっては外観・ロビー・音響・トイレなどが挙げられようか。演奏する側から見ればこのホール、何故か落ち着くのだ。控え室の天井は低く、ほとんどの人がかがまなければならない。その構造は複雑で、どうやって舞台に行くのかわからない。それなのに、この落ち着きを生み出す雰囲気は一体何なのだ。よく見ていくうちに設計者の意志が感じられるような気がした。何か大きな意志。その意志が、演奏者としての私たちを高めてくれる。舞台は整った。

3.剣闘士へ捧げる歌

 サウンドを形作るのには練習が重要だが、音楽を紡いでいくには「想い」が必要だ。何も「愛」だの「怒り」だのを指していっているのではない。音を出す自分と他者のコミュニケーションだ。個人が創り出す作品を評価し、それに自分が参加する。その自分を受け入れて紡いでいってくれる他者が同時に同じことをする。機能として楽器を吹く(叩く)自分を支える「想い」。他者へのアピールであり、他者を無条件に受け入れる愛でもある。そこに悦びが生まれ、「何か」が創られていく過程に携わっている「今」に感謝する。しかし自分がそれを感じているからといって、他者もそれを感じていると思い込むのは傲慢である。あくまで「他者」との関わりなのだ。演奏に臨むすべての人間が完全に音楽家になり得たとき、「神の作品」が生まれる。その「神」とは演奏に携わった人それぞれの「想い」の結晶に他ならない。「スパルタクス」をイメージとして表現し、「ヴィリアの歌」はそれぞれの想いをのせて音楽となり、音楽の楽しさに感謝しながら名残を惜しみつつ「美中の美」を吹く。観客側に視点を移しても、音楽会として聴いていた人は満足してくれたようである。常々思うのだが、音楽を聴くには楽器なんてやっていないほうが良いのかもしれない。どうしても自分が関わっている楽器に目と耳がいってしまうからだ。この世界にも、得るものと捨てるものとがある。